mayuge のヒマラヤ・トレッキング日記 Trekking TOPITINERARY<past
【10日目】 ペリチェ ⇒ タンボチェ
The 10th Leg "Pheriche⇒Tengboche"


 午前7時15分起床。昨夕の雪のせいか室温は氷点下5.4度にまで下がっていた。昨夜の歯磨きのとき、星空がまた素晴らしくきれいだった。流れ星も見えた。

 満天の星のもと歯磨き。なかなか贅沢じゃない、なんて思ったりもする。


さらば、アマダブラム
 午前9時、ペリチェを出発。途中の山道で振り返ると、昨夕の雪でさらに雪化粧したアマダブラムが青空に映えて輝いていた。

 午前10時、オーショーという村で休憩。シェルパの「普通の民家兼、食堂」といった、超生活感のある店でホットレモンを飲む。四畳半程度の薄暗い食堂には、かまどがひとつ。正面と上部に穴が空いていて、正面から薪を突っ込み、上部に鍋をかざすといういたってシンプルなものだ。そこではおかみさんがダールを煮込んでいた。


 そこからの山道は登ってくるヤクの群れでごった返していた。ちょうどラッシュアワーなんだろうか。ヤクの糞のにおいが太陽光を受けてモワっと上がっくる。また、この時間になると、日なたの雪が解けだしてきているようだ。所々、山道を横切るように「小川」が出現する。山道は、ぬかるんだ部分と、日陰の凍結した部分が交互に現れる状態だ。

 さらに進むと、次第に「人の気配」を感じるようになる。人間が生活する村と村の間隔が近くなってきているのだ。それにともなって、ガムの包装紙などゴミのポイ捨てが散見されるようになる。なんとも残念な気分になる。


 午前11時、パンボチェに到着。ここでショッキングなニュースを耳にした。すれ違うガイドどうしの情報交換によると、昨夜ゾンラという村でネパール人のガイドが死んだというのだ。高山病が原因らしい。ネパール人といっても、シェルパ族のように高山地帯で生活する人たちだけではない。カトマンドゥのような低地に暮らす民族など、出自はいろいろなのだ。ガイドといっても我々トレッカーと変わらないような高地慣れしていない人も結構いるそうだ。

 「サーッ」という音を発するほど水量の増した川を左手に見ながら、さらに尾根の斜面を横切って進む。雪解け水による増水ということもあるだろうが、支流を集めることでより大きな川になってきているのだろう。大分低い所まで降りてきたという証拠だ。このあたりはゆるやかなアップダウンなので息も楽。前方には本日の目的地タンボチェも見え始めた。

 行き過ぎた村では、これからカラパタール方面へ登るトレッカーたちがオープンテラスで休憩していた。なかにはTシャツ姿の者もいる。これもまた、下ってきていることを感じさせる事象だ。

 すれ違うヨーロピアンのトレッカーのなかには、少し違和感を覚えさせる人もいた。サングラスにヘッドフォンというスタイルはキマっているのだが、「音」がいただけない。「チャカチャカ……」という音が漏れるほどの大音響で音楽を聴いているのだ。大自然のなかでウォークマン。それも彼らの文化なのかもしれないが、せっかくの渓流の音に耳を傾けないのはもったいないなと思ってしまう。トレッキング中の夜は長い。夜にいくらでも聞けるだろう、音楽なんて。

 また、ここはNYのセントラルパークかと思うような、ものすごいスピードで「ウォーキング」していくヨーロピアン集団もいる(ちなみに僕はNYに行ったことはないけど)。こんな高地で、まさに「クレイジー」。これも彼らの異常なまでの「健康志向」の一端なんだろうか。死人が出たという話を聞いたばかりだし、高山病にはくれぐれも気をつけて欲しいものだ。


オープンエアでくつろぐトレッカーたち
 午後0時15分、ディボチェという村に到着、ここでランチとなる。ここでもやはり屋外で食事をする人たちに出会う。彼らは「下り組」のようだ。寒いところから降りてきて、待ちに待った太陽光のもとでの食事、といったところか。

 ゆっくりしたランチを終えると、あとはタンボチェまで森の中を登っていく坂道との勝負。ぬかるんだ足元に神経を使いながら両手も駆使して這い上がる。



  午後2時20分、タンボチェ到着。荷物を降ろすと、まずシャワーを浴びた。往路にここタンボチェで浴びて以来なので、実に六日ぶりということになる。なかなかシャンプーの泡がたたず苦労しながらも、全身をくまなく洗う。節約して使って残ったお湯は洗濯に使用。いやぁ、マジすっきり。

 午後4時40分、タンボチェのグンバ(チベット仏教のお寺)を見学しに行く。人が誰もいない静まり返ったお堂には、黄金の大仏が座っている。その両サイドには「阿吽(あうん)」のコンビ。しかし二人とも口は結んだままで、両目を恐いくらいに見開いている。壁を埋めるのは曼荼羅のような絵図。これらはとてもカラフルな色使いだ。

 すると側廊からお経を唱える声が聞こえるのに気がついた。覗いてみると、小坊主たちが座禅を組んで、各自思い思いに読経の練習に励んでいる。見たところ、彼らはみな小学校低学年くらいの年齢のようだ。奥には先生といった感じのお坊さんが二人座って、小坊主たちを見回している。まさに教室のような雰囲気である。小坊主のなかには、読経しながらも時折、見学にきている我々トレッカーのほうを「チラッ、チラッ」と見てしまう奴がいたりしてかわいらしい。ゴメンな、邪魔して……。クリクリ頭の小坊主たちは、合唱ではなく皆バラバラにお経を唱えているのだが、何故か不思議と一体となった空気が醸成されているのが興味深かった。

 この日も夕食時を過ぎた頃から雪が降った。水気が多く積雪はしなさそうだが、量は多い。明日の道に響かなければいいが。

2001年3月30日(金)
Fri. Mar.30 '01


【11日目】 タンボチェ ⇒ ナムチェ・バザール
The 11th Leg "Tengboche⇒Namuche Bazar"



タンボチェ、朝のエヴェレスト・ヴュー

カラフルな「グンバ」が青い空に映える
 午前6時45分起床。空は快晴だ。

 タンボチェの広場からは、エヴェレストがきれいに見える。広場の上空では、鷲がゆっくりと、気持ちよさそうに舞っている。

 なんと、「朝のおつとめ」をするトイレ小屋の小窓からも、青空をバックにエヴェレストの姿がバッチリ見えた。朝からトイレで感動なのである。カラパタールから見たときよりも、かぶっている雪の量が増えた気がする。

 グンバも朝の光を受けてきれいだった。


 午前8時20分、絶好のエヴェレスト・ヴューをもう一度振り返り、出発。

 午前9時、タンボチェからの急坂を下りきり、プンキテンガに到着。ここでもまた訃報に遭遇した。登ってきたネパール人ガイドによると、前日の夕方、ロブチェのロッジで一人のポーターが死んだという。彼もまた高山病。この情報をもたらしたガイド二人は、これから検死と死体の引き降ろしに向かうということだった。やはりここソル・クーンブはとても危険な場所なのだ。マユゲも一歩間違えばどうなっていたか分からない。無理は禁物だ。

 午後0時10分、ナムチェ・バザール着。往路で二泊して愛着がわいた場所だけに、「戻ってきた」という感慨があった。相変わらずここナムチェは賑っている。一ヶ所にこれだけ人が集まるのを久しぶりに見た。

 さっそく通りを見下ろせるお気に入りのベランダに陣取って、ミルクティー入りのカップを片手に一服。みやげ物屋の色男ともここで再会。うまそうに一服するマユゲを見上げて、彼は自分にも一本くれよと言ってきたので、箱ごと投げ下ろしてやると、一本抜いたあとにストライクを返してきた。こんなちょっとしたやりとりも、事を成し遂げて凱旋したような気分のマユゲにとっては、とても楽しいものだった。

2001年3月31日(土)
Sat. Mar.31 '01


【12日目】 ナムチェ・バザール ⇒ パクディン
The 12th Leg "Namuche Bazar⇒Phakding"



「チベタンブレッド+ジャム」&「オムレツ+ケチャップ」が、朝の新・定番

ベランダから、おばちゃん(右)にお別れを
 午前7時起床。ナムチェまで下りてきても、やはり朝は冷え込む。室温は氷点下にこそならないものの、摂氏1.2度。

 この日も空は快晴。昨夕降った屋根の上の雪が陽光で解け、雨樋から滴り落ちる音が聞こえてくる。この天気だと紫外線も強烈そうだ。これまでの行程で、すでにマユゲの鼻の頭はボロボロ。日焼け、乾燥、鼻水ですごいことになっている。日焼け止めを持ってくればよかったと後悔するほどだ。

 朝食はこのところ定番の「チベタン・ブレッド」。ナンを薄くしたような柔らかいパンの一種で、なかなかいける。

 食後は、お気に入りのベダンダにお別れを告げつつ、一服。向かいの店のおばちゃんにもさよならを。

 午前9時出発、木々で日陰になった急坂を下る。足元は所々凍っている。

 ここでエヴェレストにも「お別れ」だ。これより先はもう、エヴェレストを見ることができるポイントはない。松の木の間からのぞくエヴェレストを目に焼き付ける。

 「また、いつか……」

枝の間からのぞくエヴェレスト
 午前10時25分、急坂を下りきってジョルサレに到着。

 木製のチョウタラ(休憩のためのベンチのようなもの)にバックパックを降ろし、休憩。

この先の吊り橋を渡ると国立公園の出口となる
 その先、モンジョという村を過ぎたところで、人だかりに遭遇。そこはちょうど崖になっているのだが、見下ろすと何やらたくさんの人が作業しているのが見える。どうやら川に掛かっていた丸太の橋が、増水した水で流されてしまったらしい。

 我々が崖を下りていくと、ちょうど一本だけ丸太が渡されたところだった。作業員の手を借りながら、用心してこれを無事通過。

小さな橋も重要な交通路なのだ
 ここからは村がさらに多くなる。

 バングルという村ではアイス・レモンを飲んで休憩。今まではホット・レモンだったが、ここまで下りてくると冷たいものが欲しくなる。

 横では猫がうたた寝をこいてる。なんだか、すっかり春という雰囲気だ。

猫も「暁を覚えず」
 「トクトク」という、日本酒を飲みたくなるような名前の村では、桜が咲き始めているのを目にした。そういえば日本も桜の季節のはず。日本の満開の桜を思い出させてくれる光景だった。

ネパールでも桜は咲いてました
 街道では、シェルパの子供たちが遊んでいる姿も見られた。地面に「あみだ」のような線を書き、そのどこかに石を投げてから片足ケンケンで進む。日本でも似たような遊びがあった気がする。確か女の子たちがやっていたような記憶がある。

少女が小石を投げて遊んでいた

笑顔がかわいいシェルパの少女
 子供といえば、ランチで立ち寄った「トクトク」という村の食堂。ここで出会った少女は、非常にかわいらしかった。日本人とそっくりな顔をしたシェルパの子で、注文取りから配膳まで、テキパキと大人顔負けなほどよく働く。日本の下手なレストランよりもよっぽどサービスがしっかりしている。

 ここでもダルバートを注文して屋外で食べていたのだが、彼女は我々が食べているのを家の窓から目だけ出して覗いている。その様子は、やはりまだ幼い女の子といった感じでかわいらしい。スープ(ダール)やご飯(バート)、野菜(タルカリ)のおかわりも、彼女が持ってきてくれる。そこで写真を撮ってもいいかと聞くと、照れながらも素敵な笑顔を見せてくれた。

 しかし、食後にいきなり登場した彼女の弟には参った。ひたすら「可愛さの押し売り」をしてきて僕を閉口させた。「ボクってかわいいでしょ」という仕種を連発するのだ。お前は男なんだからビシっとしろ、ビシッと。つくったらダメなんだよ、そういうのは。

 この食堂では、街道を一人で登ってくるラマ(チベット仏教のお坊さん)にも出会った。自分たちが生活しているグンバ(お寺)の補修費用を集めるために、村々でカンパを募りながら旅しているのだという。「なべおさみ」を若くしたような顔の彼は、オレンジ色の僧衣に身を包んでいるが、肩は露出した状態だ。これから先は寒くなっていくだろうに、ご苦労なことだ。

 僕もわずかながらカンパをして、片言の英語を話す彼と少々おしゃべり。年は三十だという。マユゲのノートに書いてくれた彼の名前は「LkaPariNji sirPa」。僕が、「ルカパリンジ・シルパ?」と声に出して読んでみると、嬉しそうにそうだと頷く。しばらく僕の地図を眺めていた彼は、丁寧にお礼を言って去っていった。食堂の少女によると、あのお坊さんは毎年やって来るのだそうだ。そうか、来年も「ルカパリンジ・シルパ、三十一歳」がこの道を通過していくわけか……。そういう人生もあるんだよな。

 ルカパリンジよ。あなたがいつまでも元気であることを祈ります……。


 午後2時05分、パクディンに到着。いよいよ標高2,600メートル台まで下りてきた。気温13.1度。ここで改めてこの地区のロッジの立派さに気づいた。「BAR」なんていう看板もあるし、ロッジの地上階にはみな小粋なカフェがあったりもする。

 この日の宿では客が我々しかいなかったので、夜はダイニングルームではなく、従業員たち(といっても家族経営なのだが)が食事をするキッチンで一緒にご飯を食べるこになった。薄暗いキッチンは、焚き木とろうそくの明かりのみ。もちろんテレビなんてない。小さなテーブルを挟むようにして、三人掛けのベンチと、アフリカの太鼓のような低い椅子が三つ並んでいる。

 ダルバートを頼むと、いつも注文を取りにきてくれる少年が料理を始める。彼はコックでもあるのだ。米を櫃から取り出すと、それをもって水場へ研ぎに行く。帰ってくるとまずは圧力鍋で米を炊く。その間にタルカリ(野菜料理)の仕込みだ。ひとつしかない火を上手に使って手際よく料理を進めていく。ここのコンロも、薪を突っ込む穴と鍋をかざす穴が開いているだけのシンプルなものだ。少年は火の加減がよくないと見ると、燃えている焚き木の置き方をさっと変えて火力を調節。その間も彼はおかみさんたちと楽しそうにおしゃべりをしている。フライパンの振り方も大したもの。具をこぼすことなく「クルッ」とひっくり返しては味付けをしていく。

 僕は薄暗いキッチンで、薪が燃えていくのと少年が料理をするのを、ただボーっと眺めていた。自分がいま目の当たりにしているのは、「働き、食べ、笑い、眠る」という、とてもシンプルな生活。果たして僕はこれから、どういう生活をしていくのだろうか。炎を見つめつつ、そんなことをぼんやりと考えていた。

 出来上がった料理は、それはそれは素晴らしいものだった。思わずおかわりをして二人前も食べてしまったほど。この日のダルバートの味は忘れられないものになりそうだ。

2001年4月1日(日)
Sun. Apr.01 '01


【13日目】 パクディン ⇒ ルクラ
The 13th Leg "Phakding⇒Lukula"



チョウタラがあるごとに休みを入れた
 午前7時起床。目覚ましがなるも、激しい胃の痛みで起き上がることができない。この高さまで下りてきていれば高山病の心配はない。昨夜あまりに美味しいダルバートを食べ過ぎてしまったからだろうか。

 横になったまま様子をみる。午前8時15分、無理矢理起き上がってみた。疲れがここへ来て一気に出てしまったのかもしれない。

 明朝のルクラからのヘリに乗らなくてはならないこともあり、午前9時15分、這うようにして出発。朝食はほとんど口にすることができないままだった。

 パクディンからルクラまでの距離は大したことはない。全行程でも一番短い移動なのだ。時間がかかっても、休みを多く入れながら進もう。

活気あるルクラの街並み
 午後0時05分、なんとかルクラに到着。体中に力が入らず非常にゆっくりとした歩みだったが、何とか倒れずにここまで来られた。しかし最後の登りはきつかったな……。

 やはりここルクラは、飛行場があることもあって活気がある。建ち並ぶロッジや商店の数はナムチェに次ぐ。さらに新しい建物の建築ラッシュのようで、あちこちで石を叩く音が聞こえてくる。

 水量たっぷりのホットシャワーを浴びた後はランチ。ここなら旅行者に配慮したメニューも多い。そこで「スパゲティ・ミートソース」を注文。出てきたものはかなり茹で込まれたスパゲティだったが、久し振りの西洋料理を楽しんだ。

 最後の最後でダウンしてしまったが、何とかここまで帰って来られた。明日ヘリと飛行機がちゃんと飛んでくれれば、カトマンドゥだ。山の暮らしを二週間続けると、あの街の喧燥が懐かしくさえ感じる。帰ったら日本料理のレストラン「桃太郎」にでも行くかな。

 いやー、それにしても疲れた。

2001年4月2日(月)
Mon. Apr.02 '01


【14日目】 ルクラ ⇒ カトマンドゥ
The 14th, the last leg "Lukula⇒Kathmandu"


 午前6時30分起床。気温3.7度。今までで一番寝起きがいい。この日で御役御免のシュラフを袋に絞り込み、バックパックを手際よくまとめ食堂へ。

 天気は最高。風もさほど強くない。これならヘリも問題なく飛ぶだろう。朝食を終えた食堂でガイドと別れ、一人で空港へ向かう。僕が乗るヘリは第二便ということだった。

 掘っ建て小屋でチェックインした後、ヘリポートで30分ほど待つと、マユゲを乗せる便が轟音とともにやってきた。

着陸時はすごい風だ
 一人だったこともあり助手席に座るように案内される。これはラッキー。

 午前8時10分、隣に座る操縦士が空港の係員に親指を立てて「スタンバイOK」のサインを示す。そしてヘリはフワリと垂直に舞い上がった。この感覚が最高に気持ちいい。

 足もとの窓からは下界の様子を覗くこともできた。ヘリはいくつかの尾根を越え、パプルーの空港に到着。ここでプロペラ機を待つ。

垂直に上がる感じがたまらない
 砂埃を巻き上げ、到着を派手に演出したプロペラ機も、午前9時15分、問題なく飛んでくれた。
コックピットの窓にはサイババがついているので安心
 午前10時、無事カトマンドゥ空港に着陸。

 二週間ぶりのカトマンドゥ。飛行機から降り立つと、まず暑さが強烈に感じられた。その暑さが、より一層「帰ってきた感」を強くする。空港からはタクシーでカトマンドゥの中心地であるタメル地区へ向かった。

 カトマンドゥは相変わらずの交通量、埃、排気ガスだ。そして、「交通法規? そんなもんクソ食らえ」と言わんばかりの手荒な運転を久し振りに満喫。

ヘリよりもスリルが味わえるタクシー
 トレッキング出発前に予約しておいた宿で荷物を降ろすやいなや、すぐに駆けつけたのは日本料理レストラン「桃太郎」。すかさず注文したのは「茄子味噌炒めセット」!

 うわっ、ビールたまんねー! 味噌汁うめー! 漬物もうめー! 冷奴も激ウマ!! そして何よりこの店の自慢、白いご飯と茄子味噌炒め! ……もう昇天。夢中で頬張り、食後は置いてある読売新聞を読み耽った。

 山の中のシンプルな生活にも感じ入るところがあったが、やはり欲しいものが手に入る都会の便利さはまた格別。まったく調子いいもんだとつくづく思う。

この店の料理は実にちゃんとした日本料理だ


 こうして14日間に渡るmayugeのヒマラヤ・トレッキングは無事終了した。

 「疲れた」というのがまず終わっての感想。そして思うのは、そう簡単に人を寄せつけない神々の山がつくる「天上の世界」を垣間見られた「嬉しさ」。でもその世界は、写真を撮って持って帰ってこられるようなものではなかった。そこには、その場でしか味わえない「空気」があったのだ。何か隠されたものを見に入って、また蓋(ふた)をして出てきたような感じとでも言おうか。それだけに、またいつかその蓋を開けたくなるときがあるかもしれない。そう思った。

 ヒマラヤの雄大な自然に接し、時にはその中での過酷な状況を克服した今回のトレッキング紀行。出発前は、きっと大切な何かを掴んで下山するのだろう、顔つきや眼光なんかも見違えて鋭くなるかもしれない。密かにそんな期待もあった。そういう自分自身の変化こそが、僕が旅というものに期待していることなのだろう。

 さて帰ってきたが、果たしてどうか。鏡を覗いてみるが、何のことはない、ちいとも変わっていないようである。ただ鼻の頭がボロボロに剥けている他は。

 そんなわけで、マユゲの旅は今後もまだまだ続きそうである。

(完)

2001年4月3日(火)
Tue. Apr.03 '01
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