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 バンクーバーで夢を追う若者たち 
「日本のホッケーを盛り上げたい」
アイスホッケー・インストラクター
中島仁実さん(28歳)

この冬もカナダ中を熱狂させるアイスホッケー。
日本ではまだ馴染みの薄いスポーツだが、
この競技にとことん惚れ込み、
日本リーグでプロとしてのプレーも経験した男が、
今、この街で「夢」の実現に向けて動き出した。

(構成・文●阿部憲二)

恩師の遺志が息づく「夢」

 「日本のホッケーは死にかけている」
 日本アイスホッケー界の現状を、中島はそう表現した。他のアマチュアスポーツの例に漏れず、不景気のあおりを受け、相次ぐ企業スポンサーの撤退に歯止めが利かない状態なのだ。
 中島が所属していた日光アイスバックスも、存亡の危機を乗り越えてきたチームだった。1999年1月、前身であった古河電工アイスホッケー部の廃部が決定。その後ファンなどの後押しもあり「日光バックス」として復活したものの、度重なる資金難で翌年再び廃部の危機に陥った。
 中島が抱く「夢」には、このときチーム存続のために尽力した、ある恩師の思いが息づいている。その人とは、当時チームのゼネラルマネージャーを務めていた高橋健次だ。日本一のホッケータウンと呼ばれる日光に生まれ育ち、アイスホッケーを誰よりも愛した人だった。2000年9月にはすい臓がんで余命1年と宣告されながらも資金集めに奔走、文字通り「命を賭けて」バックスの存続を成し遂げた。高橋は昨年8月、53歳の若さで亡くなった。
 高橋を父親のように慕っていた中島は、昨年3月、生前の高橋に電話を入れた。中島の「夢」を理解していた高橋は言った。「心配するな。俺がバックスを守るから、お前は日本のホッケーを盛り上げることを考えろ」。もう迷いはなかった。










故・高橋氏(中)と中島(左)

鬼コーチが教えてくれたプロ根性

 バックスでの現役時代、ヘッドコーチとしてカナダ人のランディ・エドモンズがやってきた。彼は、強豪国スウェーデンのトップリーグで活躍したという経歴の持ち主で、現役引退後も当地に残って名コーチとして鳴らした人物だった。
 バックスはすでにプロ化されていたとはいえ、当初は「甘さ」があったという。多くの選手は依然として「給料制」だったのだ。「別に試合に勝っても負けても、飯を食っていけるんです。逆に、優勝しても給料が上がるわけじゃない」
 そんなバックスにプロ根性というものを叩き込んだのが、エドモンズだった。試合に勝てなければファンが減る。スポンサーが観に来ても不甲斐ない試合をすれば、出資から手を引かれてしまう。資金が集まらなければ、チーム運営ができなくなる。そんな「プロの論理」を体で知っている人だった。
 鬼コーチ・エドモンズの指導を受けたバックスは、練習でも一分一秒を無駄にしないという真剣さが出てくるようになった。コーチ1人でチームの雰囲気が変わった。日本人監督にはない「プロ意識」を目の当たりにした中島は思った。「監督だって試合に勝たなくても飯を食えていたんだから、日本にはこういう人材がいなかったんだ。いないなら、俺がそれになろう」。中島の目は、自然と指導者の道へ、そして世界へと向くようになっていた。

日本のスタイル、自分のスタイルを追求したい

 「日本はまだホッケー後進国。指導者を海外から呼びはするけど、その人の出身国のスタイルをただ取り入れているだけ。日本人としてのスタイルをつくっているわけではない。体格、パワー、スピードなどすべてを考えた上で、日本人に合うシステムをつくる。これからはそれをやっていくべきなんです」
 そう語る中島の目は、もう指導者のそれだ。彼は今、教える立場の者として、技術的、戦術的なこと以外で必要となるものについても思案している。
 「『勝つために』を貫くことと、ホッケーをやる楽しみを感じること。この2つのバランスはとても難しい。究極のテーマです。自分は現役時代、ホッケーを楽しんでできなかったタイプだけど、今になってようやくその楽しさが分かってきた。これからの日本の選手にはプロとしての厳しさと同時に、楽しさも知って欲しい」。
 彼の恩師、エドモンズに言わせれば「甘い」のかもしれない。それでも中島は、自分のスタイルを追い求めたいと考えている。

INTERVIEW

「ここでホッケーに興味を持った人が、日本に帰ってからその楽しさを広めてくれたらいい」

―――選手時代に抱いていた将来像は?

中島
 実は高校の先生になりたかったんです。高校生の時に自分なりに描いた将来設計はこうでした。大学を出てプロを経験したら、本場のカナダでコーチの資格を取る。その後、チェコやスウェーデンなど強豪国のホッケーを観ながら勉強して、自分なりの「日本人に合うホッケーのスタイル」を作り上げる。そして北海道に戻って子供たちにそれを教えたいと思っていました。
―――それが少々、路線変更になったそうですね。
中島
 日本リーグ「札幌ポラリス」の消滅が僕にとっての大事件でした。このことによって計画の変更を迫られたんです。昨季までは雪印が出資母体となって運営していたのですが、一連の不祥事に伴う業績悪化の影響もあって今季より休部となった。さらに名門「コクド」と「西武鉄道」の合併の噂もあって、さらなるチーム減の可能性が出てきました。そうなったら日本のホッケーはもう終わりです。日本リーグがなければ、せっかくホッケーに興味を持った子供たちの将来の受け皿が消えてしまうことになるし、僕のプランを実践するフィールドもなくなってしまう。日本のホッケーの灯を消さないためには、高校の一教師としてではなく、もっと広い範囲で普及活動をしていく必要があると考えたんです。
―――「育成」だけでなく「普及」も急務だと。
中島
 こちらに来てからは「普及」のための活動も意識しています。僕自身が積極的にメディアに取り上げてもらうことでホッケーの宣伝になればいいし、それをきっかけにこのスポーツに興味を持った人が、日本に帰ってからホッケーの楽しさを広めてくれたらいい。そんなファンが一人でも増えてくれたらと思ってやっています。
 「育成」の面で言えば、若い選手を育てるにも今の日本には彼らを教えられる指導者が不足している状態。だから僕はここで「コーチのコーチ」になるための勉強をしています。また、才能ある若い日本人プレーヤーが本場カナダのホッケーに挑戦するための環境づくりも並行して計画しています。
―――将来は日本人NHLプレーヤー誕生、ですか。
中島
 何もNHLに日本人選手を送り込むことだけが僕の目標ではありません。将来もしそういう選手が出てきたとしたら、きっとメディアに取り上げられるでしょう。それが僕の狙いなんです。日本のホッケーを盛り上げること。NHL挑戦を目指す選手のための環境づくりは、そのための布石だと思っています。
―――10年後の自分は、どうなっていたいですか?
中島
 ホッケーを知ってもらうために、日本中を駆け回っていたい。防具を担いで、資料を持って(笑)。指導者の方々を相手にするだけではなく、子供たちにもホッケーの楽しさを教えてあげたいですね。

(文中敬称略)
中島仁実(なかじま・ひとみ)
1974年、北海道・釧路生まれ。7歳よりアイスホッケーを始め、釧路江南高3年時にインターハイ優勝。関東大学1部リーグの早大を経て、97年より古河電工とプロ契約。99年の古河廃部後は新生「日光バックス」で活躍。引退後、02年ワーキングホリデー制度でカナダへ。指導者としての経験を積みながら、日本でのホッケー普及を睨んだ活動を開始。同年11月、アイスホッケー・コーチ・レベル2の資格を取得。家族: 両親と兄、妹 好きな言葉: 「信は力なり」
Oops! Japanese Magazine』2003年1月上旬号 掲載記事
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