ヴェネツィア 一五六九年・秋
アゴスティーノ・バルバリーゴは、その日はいつもより早く、元首官邸(パラッツィオ・ドゥッカーレ)を後にしていた。
二年におよんだキプロス島駐在の任務が終り、一週間前にヴェネツィアに帰任していたのだが、元老院や十人委員会での報告に忙しく、久かたぶりの帰国なのに自宅でゆっくりする暇さえない毎日であったのだ。(中略)
ただ、バルバリーゴのほうも、帰国以来眼にしたのが、大運河ぞいにある彼の屋敷から元首官邸までの道筋というここ連日の状態を、苦痛とも思っていなかった。ヴェネツィアの名門中の名門に生まれたという事情はおいても、祖国に対する責任感は、彼にとって、ほとんど自らの体内を流れる血と同じくらいに自然なものであったからだ。
そして、これまたヴェネツィアの名門の生まれである彼の妻は、本国にいないときのほうが多い夫なしの日常を、立派にこなしていく型の女でもあった。夫の久かたぶりの帰国も、妻の社交の日程になんの変化ももたらさなかった。子供はいない。養子にした甥は、女王エリザベス一世が治めるイギリスに、大使の副官として駐在している。
今日は波が高いぞ、聖マルコの船着場 |
元首官邸から聖(サン)マルコの船着場と呼ばれる港に出ると、やわらかく暖かい西陽(にしび)が全身をつつんだ。眼前に広がる海も、波ひとつない。聖マルコの船着場には、勤務を終えて帰宅する政府の高官たちを待って、何艘もの自家用のゴンドラがもやっている。高齢の議員たちともなると、官邸から自分の屋敷の玄関先まで、ゴンドラで通うのを好む者が多かった。
やわらかい陽差しを浴びて、バルバリーゴもさすがに解放感にひたっていた。連日の質問責めから、ようやく解放されたのだ。だが、ほぼ確実に、さしたるときもおかずに次の任務がもたらされるにちがいなかった。二年もの間、ヴェネツィア共和国の最前線基地キプロスに海軍司令官として駐在していた彼のような男を、この時期のヴェネツィアが遊ばせておくはずがなかったのである。
バルバリーゴも、その辺の事情は承知している。ただ、ほんの少しにしても許された日々を、静かに過ごそうとだけは決めていた。本土のヴィチェンツァにある田園に囲まれた別荘(ヴィラ)、少年時代のさまざまな思い出に満ちたあの家で過ごす考えは、彼を思わず微笑させるのだった。
だが、そこに向けて発つ前に、済ませておかねばならないことがまだ一つ残っていた。それは二年もの間心にかかっていたことだったが、今ようやく、片づける時間の余裕をもてたのだ。それで、バルバリーゴは、帰宅するのだったら使うのとは反対側の出入口から、元首官邸を出たのだった。あらかじめ調べさせておいた報告によれば、彼が訪れようとしているかつての副官の遺族の家は、ヴェネツィアの貴族や大金持の屋敷が多く集まる大運河にそった区域からは遠く離れた、聖(サン)セヴェーロ教区にあるということだった。
西陽を背に受けながら、バルバリーゴはしっかりとした足どりで橋を渡った。この橋を渡りきると、そこはもう聖マルコの船着場とは呼ばれない。同じく船着場の延長なのに、そこからは「スキャヴォーニの河岸(リヴァ・スキャヴォーニ)」と呼ばれる。聖マルコの船着場が、艦隊の旗艦が錨をおろす桟橋であれば、スキャヴォーニの河岸は、旗艦に従う軍船が列をなしてつながれる桟橋であった。もちろん、ガレー軍船に占領されていないときは、商船の船尾が果てしなくつづく状態では変わりない。
二〇〇一年のリヴァ・スキャヴォーニ |
そして、軍船商船を問わず、海運国ヴェネツィアにとっては不可欠の下級船員の供給地であるダルマツィア地方の人々を尊重する証とでもいうように、このあたりから延々とつづく船着場は、ダルマツィア人の河岸という意味で、「スキャヴォーニの河岸」と呼ばれるようになって久しいのであった。
いきおいこの辺一帯には、ヴェネツィア船の下級船員たちが多く住む。ギリシア正教の教会まである。そのような区域に、ヴェネツィアの貴族がなぜ住んでいるのか。スキャヴォーニの河岸を行くバルバリーゴの頭の中には、その疑問が一瞬ではあったがよぎった。だが、深くは考えなかった。金持の住まう地域と一般庶民地区が明確に分かれたことのないヴェネツィアでは、大運河ぞいでさえ、他と比較すれば裕福な家が多い、という程度であったからである。
ヴェネツィア独特のタイコ状の橋を、もう一つ渡った。橋を渡りながらバルバリーゴは、国外勤務が長いとこれを渡る感覚だけは忘れる、と苦笑しながら思った。(中略)
スキャヴォーニの河岸をしばらく行ったところで、左手に口を開けた小路に足をふみ入れた。この道だと目的の家には遠くなるにしても、聖(サン)ザッカリーアの教会の前を通ることになる。道程も、さほど伸びるわけでもなかった。
バルバリーゴは、なぜかこの教会が、少年の頃から好きだった。いや、教会というよりも、この教会の正面(ファサード)が好きだったというべきかもしれない。
聖ザッカリーア教会は、いつも静かに立っている。ヴェネツィアでしか見られない曲線の多い様式は、異国的でありながら、余計なものをすべて捨て去った清々しさでおちついていた。使われているのが、白の大理石だけという理由からかもしれなかった。
バルバリーゴは、この教会の正面を眺めるたびに、静かで安らかでいながら明るい気分にひたれるのだ。
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感動。ここがその広場か…… |
聖ザッカリーア教会前の広場(カンポ)は、スキャヴォーニの河岸からは二十メートルと入っていないのに、不思議と船着場の喧燥から隔絶されている。人通りがないというわけではない。ただ、ヴェネツィアの他の広場とちがって、ここでは、小路から小路へ抜けるのに広場をななめに横切っていくのではなく、教会の正面を横目に見ながら、広場の一面を通れば行けるのがちがう。それで、教会が占める一画だけが、人間世界から隔絶されでもしているかのように、静寂な雰囲気を漂わせることができるのかもしれなかった。
このような雰囲気は、ヴェネツィアにある教会では、人々の寝静まった深夜でもなければ味わうことはできない。
聖ザッカリーア教会は今日も西陽を受ける |
バルバリーゴは、広場に入ったところで足をとめた。折りからの西陽を全面に浴びて、教会の正面を埋める大理石は、暖かい色調に変わっている。ミサの時刻をはずれているためか、教会の入口にはつきものの乞食が一人うずくまっているほかは、人影もない。バルバリーゴは、なじみ深いこの光景を前にして、ヴェネツィアに帰ってきたという想いを、心の底から満喫していた。
と、そのとき、教会の扉が内側から開き、はじめに少年が、そしてそのすぐ後から一人の女が、姿をあらわすのが見えた。
眠り込んでいたように見えた乞食が、めざとくこの二人に声をかける。行き過ぎようとしていた女は、それを耳にしたのか足をとめ、かたわらの少年に、手にしていた小さな袋から出したものを与え、少年になにごとかをささやいた。
与えたのは、小銭ででもあったのだろう。少年は乞食に近づき、身をかがめて、乞食にそれを手渡した。乞食の前に小銭を投げたのではなかった。それから少し離れたところに待っていた女のところに戻り、二人は、バルバリーゴの立っていた場所とは反対側に開いた小路に向かって歩き出した。
この二人は、母と子にちがいなかった。女が少年にささやきかける感じと、少年が女に向かって話しかける態度から、二人の間の親密さがうかがわれた。ただ、その親密さは、無意識のうちにもいたわり合う優しさにあふれていて、それが、バルバリーゴの胸までなつかしい想いでいっぱいにした。彼は、そのような想いを、ずいぶんと長い間忘れていたように思った。(中略)
くり抜いた感じの……、あった、これだ
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おおー、あるある……
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母と子は、広場から小路を抜ける。それは文字どおり、抜けるという表現が当っていた。なぜなら、聖ザッカリーアの広場からのこの小路は、建物の下をくり抜いた感じの路を行くからだ。処女マリアの浮彫りで飾られたそれを抜けた後、母と子の二人連れは、道を右にとった。
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道を右にとると……、図らずも前方に母子あり |
バルバリーゴは、自分もこの道を行くので、自然に二人の後を追う形になった。ただ、距離はおいた。二人のまわりをつつむなつかしく優しい雰囲気を、もう少し眺めていたい気持ちであったからだ。それで、二、三十歩の距離をおいたのだった。先を行く二人は、そんなバルバリーゴに、まったく気づいていないようだった。
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運河ぞいの道に……、出た、確かに! |
しばらく行くと、運河ぞいの道に出る。運河に沿う道路は、同じ道でも、ヴェネツィアでは道(カッレ)とは呼ばない。河岸(フォンダメンタ)と呼ばれる。運河が縦横に走っているヴェネツィアでは、あらゆるところに舟があり、それらを横づけできる場所ならば、通常の道路であるとともに河岸の役目も果たしていたからだった。
運河ぞいの河岸(フォンダメンタ)を少し行くと、小ぶりだが橋があった。あいかわらず親し気に話し合いながら、母と子はその橋を渡りはじめる。バルバリーゴも、聖セヴェーロ教区に行くならばこの辺の橋を渡らねばならないことを思い出した。運河(リオ)のこちら側は聖ザッカリーア教区だが、対岸からは聖セヴェーロ教区になるのである。
しかし、二、三十歩離れて歩いていたバルバリーゴが、タイコ状の橋のたもとまで来たとき、橋の上にも、またその橋を渡りきって後もまっすぐにつづいている小路にも、母と子の姿はなくなっていた。(以下略)
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〜塩野七生著『レパントの海戦』(新潮文庫)より〜 |