mayugeのダラダラ放浪紀 ニッポン人が無性に憧れる国。イタリア (Italy)

「アテネ〜ローマ」篇 (Athens-Roma)


 『レパントの海戦』の舞台へ

 2001年6月12日(火)、ギリシャ滞在16日目にしていよいよ出国の日。まずは、イタリア・ブリンディシへ渡るフェリー乗船地であるパトラスへ向かう。シンタグマ広場からメトロに乗ってギリシャ国鉄の駅へ。地下鉄出口のすぐ前は国鉄ラリッサ駅。この駅はギリシャ北部へ行く列車用の駅で、パトラスなどペロポネソス半島方面へ行く列車はその名もペロポネソス駅という、もうひとつの駅に行かなければならない。軌道違いの両駅は隣り合っているのだが、地図で見るより結構遠いんだな、これが。背中にでかパック、腹にデイパックという状態で炎天下を歩くはめになってしまった。


ギリシャの車窓から
 ようやく列車に乗りこんで一息ついた午後0時7分、定刻通りに出発。食堂車で買ったサンドイッチなどをパクついていると、左手の窓からサロニコス湾の奇麗な青が目に入ってきた。

 その後は本を読んだりして地中海シリーズ初の列車の旅を楽しむ。ギリシャ本土とペロポネソス半島のつなぎ目にある、コリントスという街の手前で何となくまた車窓に目を移すと、両側を切り立った崖に挟まれたエメラルド色に輝く水路が見えた。列車はあっという間にそれを横切って通り過ぎてしまったが、その迫力ある景色が目に焼き付いた。そういえば、みやげ屋の絵はがきにこの景色あったな。水路を船が通ってるやつ。あれはここのことだったのか。調べてみればこれはコリントス運河といって、ギリシャ南部へ通ずるサロニコス湾と、イタリアなど西部への玄関口となるコリンティアコス湾(この湾はレパントの海戦の舞台、パトライコス湾、さらにはイオニア海へ通ずる)をつなぐ、コリントス運河だったのだ。偶然とはいえ見れたはラッキーだった。


 パトラスへは所要約3時間半、たいして遅れることなく到着(これは意外だった)。すぐさまヘレニック・メディティレニアン・ラインズ(HML)という船会社のオフィスを探してまわり、シエスタ明けの午後5時にチケットをゲット。HMLのパトラス〜ブリンディシ間のフェリーは、ユーロパスを持っていれば無料になる。ユーロパスの基本五ヶ国(仏・独・伊・西・スイス)にギリシャをオプションで加えたのは結局このためだけになってしまったが、まあいいか(使用できる15日間の内訳を改めてざっくり計算してみると、この後伊・仏・スイス・西で使い切ることになるため、物価の割と安いギリシャ内のアテネ〜パトラス間は別に切符を購入した)。ちなみに、パトラス鉄道駅とHMLのオフィス、さらにオフィスと乗船ゲートは相当遠い。またまたバックパック・サンドイッチ状態で滝の汗をかされることになってしまった。こんなことならコインロッカーに預ければよかった……。


手前右にはペロポネソス半島、左奥にはギリシャ本土が見える

遠くイオニア海方面に沈む夕陽
 定刻より30分ほど遅れた午後8時30分過ぎ、フェリーが出航。ギリシャ出国にあたってのパスポートへのスタンプについて乗船時に船会社の係員に聞いたところ、必要ないといってたが果たして大丈夫だろうか。

 日が暮れるのが遅いこの地域、午後8時半といってもまだまだ明るい。西へ進む船の右後方には、レパントの海戦前にイスラム側の総司令官アリ・パシャ率いるトルコ艦隊約300隻が停泊していたという海峡がしっかりと見える。『レパントの海戦』文庫本を片手に、430年前の男たちの闘いに思いを馳せる――。

 結局日が沈んだのは、9時ちかくになってからだった。

最も安いクラスのキャビンでも清潔で快適
 夜の船旅。そして予定航行時間14時間。今回はさすがにキャビンを確保した。ピークシーズンにはすべて埋まるというキャビンもこの時期ならまだまだ余裕があるようだ。1コンパートメントに4つベッドがあるのだが、結局誰も来ずに独り占めとなった。これは安眠間違いなし。

 ホットシャワーを浴び、レストランで夕食を摂り、午前0時過ぎには枕元の灯りを消した。船の上とは思えない暮らしだ。
 "かかと"から"長靴"に上陸


到着を待つ各国からのバックパッカー
 翌6月13日(水)、レストランでの簡単な朝食後はブリンディシ到着に備えて、トーマスクック時刻表でローマまでの列車をシミュレーションなどして過ごす。その合間、ロビーで一服しているときに、ある日本人の女の子二人と出会った。彼女たちは別々に旅していて出会ったんだそうだ。一方は福岡在住の「派遣」さん。物静かでとても小柄な彼女はこれからイタリア内を旅するという。シャツの首根っこつままれて簡単にさらわれちゃいそうな感じで、心配になるくらい。もう一方は東京赤坂で働いていたという脱OL(?)ちゃん。こちらは口も達者そうで(失礼)、危険なイタリア旅行も既に無事終え、その後ギリシャに渡り、またイタリアに戻るところだとか。皆、それぞれよのぅ――。

 さてさて、予定より2時間30分遅れのイタリア時間午前11時30分(ギリシャとは時差1時間)、イタリアの“かかと”付近の港町、ブリンディシに到着となった。

イタリア GENERAL INFORMATION
正式国名  イタリア共和国(Italian Republic)  首 都  ローマ(Roma) 国旗
面 積  301,268平方キロメートル 人 口  5,739万人('96)  
人種民族  ラテン系イタリア人
宗 教  ローマン・カトリック(90%以上)
言 語  公用語=イタリア語
通 貨  リラ(L)。 1000L=約58.1円 ('01年6月13日)
時 差  日本より−8時間(サマータイム中は−7時間)

 ブリンディシといえば、かつてはローマ帝国の重要な軍港であったところ。あのスキピオ・アフリカヌスが、あのカエサルが、この港から、アドリア海の対岸ギリシャやマケドニアをはじめとした遠征地へと出陣していったのだ。塩野七生読者ならば何度も目にした地名だろう。現在はといえば、港にこそ石油化学コンビナート(懐かしい響き……)らしき大規模な工場が建ち並ぶものの、街自体は小さな地方都市といった風情。もちろん銀行をはじめとした生活のための各種機能はしっかり備えているが、場所が国土の端も端なだけに、ミラノやローマの連中からすれば「田舎」扱いされているのは容易に想像できる。

 夕方のローマ行き列車の予約をし、でかパックをコインロッカーに預け、イタリアでの初ランチに出掛けた。駅近くのピッツァレラの小僧が元気よく呼び込みしていたので、そこで食べてみることにする。場所柄、ツーリスト・メニューといういわゆるセットメニュー(パスタ+メイン一皿+パン)があったので、まずはそれから手始め。小僧はもう一人いて、二人とも中〜高校生くらい。小柄ではあるが、細目のパンツにピチっとしたTシャツがよく似合っている。多すぎないアクセサリーもかっこいい。そしてイケてようがイケてまいがおネエさま方が通ると、目でじーっと追った後、ちゃんとナンパする。こいつらはまだ未成年だけに「今夜二人でカッフェ・マキアートでも飲みません?」かなんかいってるのだろうか。田舎とはいえ、さすがイタリアン。

 マユゲがジャポンから来たと分かると目を見開いたので、「ナッカータ!」(うんうん、そうだろう)と来るかと思ったが、「アターッ! ブルース・リー?」。……それはホンコンだっつーの(怒)。やはりジャアポンとチナ(チャイナ)は彼らにとっては全く同じイメージらしく、言葉も違うといったら相当驚いていた。このあたりは田舎者っぽい。それでもさすがに「ナッカータ」は知っていた。

 「イタリア語+英語+ボディランゲージ」と「日本語+英語+ボディランゲージ」で、小僧たちと笑い合いながら食べたイタリア初ランチはなかなかの味。しかし、ワインが「ハーフ・リットロ(500mlデカンタ入り)」で2500リラ(145円)というのには驚いた。ジュースより安い。さすが本場。



イタリアの“新幹線”でローマへ
 午後4時47分、定刻通りにユーロスター(ES)がやって来た。ペンドリーノ(振り子)と呼ばれるこの車両は、高速で急なカーブを曲がっても大丈夫なように、振り子の原理で車体を内側に傾けるような仕組みになっているそうだ。

 それは本当だった。小さな字を読んでいたら酔った。電車で酔ったのは初めて。本から顔を上げて車体の揺れ方を改めてみてみると、平衡な状態から左に傾き、また平衡に。すぐまた右に傾き、平衡。ジェットコースターの感覚に近い。字さえ読まなければ大丈夫なのだろうが、何せローマまで6時間以上。MD持ってきておいて良かったとつくづく思うマユゲであった。

 マユゲを悩ませたのがもう一つ。やはりイタリアでも携帯電話のマナーはよいとはいえない。隣に座った若い奴の携帯が大音量でひっきりなしに鳴るのだ。その都度、「プローント、スィースィー、ベーネベーネ」なんていっている。ベーネじゃねぇよ、静かにしろっつーの。

 そんなこんなでいよいよ“あの”ローマへ到着。サッカー・セリエAのASローマがリーグ優勝決定戦を目前に控えているせいか、ローマ・テルミニ駅の周囲には危なげな連中がたむろしていたりして、いささかデインジャラスな香りが漂っている。午後11時過ぎからのホテル探しは大変だったが、安宿も多いといわれる駅の周辺をまわり、四軒めで手を打った。予算より高かったが、荷物持って階段上がるのもう嫌、ギブアップ、という感じ。今日はここまで。明日また改めて安いところ探そう。


2001.06.14 ローマ にて

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