mayugeのダラダラ放浪紀 アジアとヨーロッパにまたがる国。トルコ (Turkey)

「トロイ」篇
 (Truva)



 地中海シリーズ、始まる

 2001年5月19日(土)、トランジット地、シンガポール・チャンギ空港を飛び立ったマユゲは、途中、アラビア半島ドゥバイでの降機をはさみ、早朝のイスタンブール国際空港(アタチュルク空港)に降り立つ。着陸直前には、窓から赤い屋根がびっしりと並ぶイスタンブール市街の様子が見えた。その何とも異国的な景色に、いよいよ第二弾、地中海シリーズが始まった、という感慨が深まる。

 何故地中海なの? そう思う人も多いことと思う。それは、ある男たちとの「出逢い」によるところが大きい。ざっと言えば、彼らが駆け回った舞台をこの目で見たかった、というのがその理由だ。じゃあ、その男たちって誰よ、という話になるが、それは追い追い……、ということで。

 行ったその日にミリオネア

 アタチュルク空港でまず感激したのが現地通貨の引き出し。マユゲはいつもシティバンクの口座から各国の現地通貨を引き出している。シティバンクのキャッシュカード(シティカード)は、現地のほとんどの銀行のATMで通用するので、いちいち銀行の窓口や両替屋で両替するよりも楽チンだ。訪れる町々にATMさえあれば、自分の口座からちょこちょこと小額を引き出せるので、必要最小限の金だけを手にしていられて安全でもある。さらに、取引内容は暗証番号を使って各地のインターネット・カフェなどで確認できる。これは非常に便利。まったくすごい時代に生まれたものだと感動さえしてしまう。

 そんな訳で、ここトルコでの一発目の引出のために空港内のATMへ足を運ぶ。近くにある両替所で本日の換算レートを確認しつつ引き出す額を計算してみると……、「100,000,000トルコリラ」。一、十、百、千、万……、ん? いちおくトルコリラ!? そう間違いない、1億だ。日本円で約1万2千円ほどなのだが、引出金額を押す指が震える。「“よろしければココを押して”ボタン」を押す前にもう一度、一、十、百、千……。すると、ウィーン、ガシャ、と「1千万札」が10枚出てくる。確かに1億、と確認して安っちい財布にしまいつつ、必要以上に周囲を警戒しながらATMを後にする“にわか億万長者”マユゲであった。


トルコ GENERAL INFORMATION
正式国名 トルコ共和国(Republic of Turky) 首 都 アンカラ(Ankara)   国旗
面 積 814,578平方キロメートル 人 口 6,287万人('97)
宗 教 イスラーム教が99%以上。それ以外はほとんどがキリスト教。
言 語 公用語=トルコ語
通 貨 トルコリラ(TL)
 1US$=1,050,000TL、1,000,000TL=約118円('01年5月19日)
※インフレにより年に数回の値上げが行われる
時 差 日本より−7時間
※サマータイム(4〜9月頃)は−6時間
電 気 220V

 マユゲ、海峡を渡る

 空港から乗ったシャトルバスを市街のアクサライというところで下車、そこからは地下鉄に乗り換える。そこから20分ほどでやや郊外に位置するオトガルに到着した。オトガルとは長距離バスが発着するターミナルのことで、トルコではたいてい市街の中心部から少し離れたところにある。マユゲはイスタンブールに到着したものの、トルコ内にある九つのユネスコ世界遺産のひとつ、「イスタンブール歴史地区」へ足を踏み入れることなく、その日のうちに第一の目的地チャナッカレに向かうことを考えていたのだ。

 チャナッカレは、トロイの遺跡で有名な街。「トロイ遺跡」もユネスコによって世界遺産に登録されているところだ。イスタンブールのオトガルからは長距離バスで約6時間。チケットは1千万TL、約1200円。トルコの中でもヨーロッパと陸続きになっている半島部分を、一路、西へ向かう。

 車内にはサービス係の兄ちゃんがいて、ジュースやスナックなどを配ってくれる。トイレ休憩後にはコロンヤ(トルコの香水)を手のひらにジャバっと注いでくれた。初めてのマユゲは訳も分からず隣のおじいちゃんの様子を見たところ、顔や首、腕などにピタピタとやって気持ち良さそうにしている。なるほど、とさっそくマネをしてピタピタやってみたところ、オマセだった中学生時代に愛用したポーチュガルのコロンを彷彿とさせるさわやかな柑橘系の香り。確かにさっぱりして気持ちいいわ、こりゃ。マユゲは一番後ろの席だったので、老若男女構わずピタピタやっている車内の様子が見てとれた。なかなか素敵な習慣だよね。

 バスは、ゆるやかな丘陵地帯の一本道をひたすら進む。見たところ一面を埋める緑は小麦か何かの畑のようだ。その中にポツリポツリと小高い樹木が立っていたりする。その様子が、いつだったか訪れた富良野に似てるな、と思った。あの木の下にはきっとトルコ版中嶋朋子と緒形直人がいたりするんだろう。

 約5時間ほどでゲリボル(かつてのガリーポリ)を過ぎ、間もなくエジェアバトという港街に到着。ここからはバスごとフェリーに乗ってダーダネルス海峡を渡る。船の上は、遠足だろうか、小学生たちでごった返していた。強烈な陽射しのお国柄か、こちらの子供たちは皆それぞれ自分のサングラスを持っていて、子供ながらいっちょまえに個性を主張しているのが微笑ましかったりする。

 この海峡は、東地中海に接するエーゲ海とトルコの内海であるマルモラ海を結んでいる。かつての東地中海貿易を担ったヴェネツィアやジェノバの商船が行き交っていた場所だ。マルモラ海はさらに、当時の東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)付近のボスフォロス海峡によって黒海に通じている。この二つの海峡は、商業及び軍事の要衝であるというその性格から、長年に渡って各時代の権力者や商人たちが制海権をかけて熱い闘いを繰り広げたドラマチックな場所なのだ。

 なーんて偉そうに世界史選択者だったかのように歴史通を気取っているものの、マユゲはバリバリの日本史受験。当時は「他の国の歴史を覚えるなんて、何か大変そー」と敬遠していた張本人なのである。しかし社会人になってから読んだ塩野七生著、中世東地中海史三部作、『コンスタンティノープルの陥落』『ロードス島攻防記』『レパントの海戦』(以上全て新潮文庫)によってすっかりこの世界に引き込まれてしまった。この旅の序盤及びクライマックスは、言わばこの三部作の世界を味わうためのものだったりもするわけである。


ダーダネルス海峡を渡るフェリーから「小アジア」をのぞむ
 そんな歴史に思いを馳せつつフェリーのデッキでしばしのナイス・ブリーズを味わうと、いよいよかつて「小アジア」と呼ばれた大地への上陸だ。

アジア側から見たダーダネルス海峡
 港の近くにある安ホテルのドミトリーにベッドを確保して散歩に出てみた。港町チャナッカレは、なかなかのどかなところのよう。週末ということもあってか、海峡沿いの公園には家族連れの旅行者やカップルなどが大勢繰り出していた。

 海を見渡せるベンチに腰掛け、『コンスタンティノープルの陥落』を読み返したりしてみる。傾きかけた太陽からの光を受けて、海面が暖かく光る。海峡を通過する船は、手にした本に登場するガレー船でこそないものの、その交通量は今もって大変なものだ。

 しばらく読み耽っていたら、あるトルコ青年に声を掛けられた。ムスタファと名乗る彼はこの街に住んでいる英語教師とのこと。こうやって時々旅行者と話すようにしているのだそうだ。マユゲの英語じゃ練習にならなくて申し訳ないと思いつつも、話はそれなりに弾んだ。アンカラの大学で学んだ後、故郷で働きたくてここチャナッカレに帰ってきたという。人ごみが嫌いで、図書館で本を読むことが好きだという物静かな彼は、日本語を勉強したこともあるそうだ。試験のために多くの単語を覚えたが、今ではそのほとんどを忘れてしまったと聞いて、同じような経験を思い出した。

 新聞などにも良く目を通しているらしい彼は「君の国の新しいプライムミニスター(首相)をどう思うかい?」という、日本を離れ頭から抜け去っていた内容の質問を浴びせ掛けてきて、マユゲをドキッとさせたりもする。「そうだなぁ……、確かに今までになかったタイプのリーダーではあるけど、彼を判断するにはまだ早すぎるかな……」と返すのが関の山。ま、実際そうだけど。

 午後6時近くなると、まだ日は高いもののお祈りの時間だと言ってムスタファは去っていった。マレーシアでよく出遭ったような"頭巾"の女性をほとんど目にしないこともあって特に意識していなかったが、戒律はさほど厳しくないにしても、ここトルコは紛れもないイスラム文化の国なのだ。


 世界遺産、トロイ遺跡へ

 翌、5月20日(日)はトロイ遺跡への半日ツアーに参加した。


バスを降りるといきなり木馬が出迎える
 朝8時45分、各国からの集まった参加者がホテル前に集合し、二台のミニバスに分乗して遺跡へ向かう。ミニバスの爆走を楽しみ遺跡の入り口に降り立つと、いきなりそこには、あの「トロイの木馬」が立っていた(もちろんレプリカ)。

 トロイと聞くと大体の人は「→シュリーマン→ホメロス→叙事詩『イーリアス』」と連鎖的に関連ワードが浮かぶだろう。おそらく高校一年一学期の期末試験前の夜に叩き込んだ記憶か、もしくは「どらエもん」で読んだかのどちらかではないかと思うが、ここでガイドブックをもとにおさらい。

 ギリシア最古最大の英雄叙事詩『イーリアス』は、紀元前800年頃にホメロスという人によって書かれたとされている。その中に、紀元前1200年頃に起こったとされる「トロイ戦争」と呼ばれる伝説についての叙述がある。

 ギリシアとトロイの間で戦われたこの戦争は、鉄壁を誇るトロイの城壁の前になかなかギリシア軍が決定打を打てず、10年の長きに及んだ。そしてとうとう最後にギリシア軍が秘策に出る。もうお手上げですというフリをして、生け贄と木馬を神に捧げるように置き去り、ギリシアの全軍が船でエーゲ海に引き上げたのだ。するとトロイ軍は長かった戦争の終わりを喜び、城壁内に木馬を引き入れて飲めや歌えの大騒ぎを始めてしまった。実は木馬の中にはギリシア兵が隠れており、大フィーバーのトロイ軍の目を盗んでスルスルっと木馬から滑り出てきた彼らが城に火を放ち、引き返してきた友軍とともに難攻不落だったトロイを落としましたとさ、というのがその伝説。

 「ィヤッホーゥ!」とばかりに疑いもせず木馬を引き入れてしまったトロイの人たちの「ちょっとお馬鹿さんな感じ」も微笑ましいが、木馬内の暗闇でじっと息を殺していた戦闘服姿のギリシア兵たちを想像するともっとおかしい。長年の戦争の勝敗を決する大事な作戦なんだと緊張してる奴もいれば、そうでない奴もいたかもしれない。

         兵隊A  「うわ、くさっ。誰か屁しただろ。お前か?」
         兵隊B  「俺じゃないよ」
         兵隊A  「嘘つけ」
         兵隊B  「俺じゃないってー」
         兵隊A  「ホーントかぁ〜?だってお前、芋好きじゃん」
         兵隊B  「きのうは食ってないもん」
        (殴る音)  ブシッ、ブシッ
         軍曹     「バカヤロー静かにしろっつーの!外に聞こえんだろーが。」
         兵隊AB「あーい、スンマソーン」

 これで最後にデブの兵隊Cが他人のやりとりをよそに木馬の隅でメチャ笑顔で芋食ってるシーンが入って「ANY TIME, ANY WHERE.」てなコピーがのったりするとギリシア農協の三流CMになりそうなものだが、さすがにそんなアホなやりとりはなかったにしても、このいかにも作り話チックな伝説を事実と信じて疑わなかった人がいた。それが19世紀のドイツ人、シュリーマンというわけ。事業で成功しお金を貯めた後、幼い頃からの愛読書『イーリアス』に書かれている話は本当にあったことに違いないという信念のもと、周囲の嘲笑をものともせず発掘作業を続け、ついに伝説の舞台「ヒサルクの丘」の発掘に成功した、とまぁこういうわけですな。


転がる柱にもちょっとしたロマンを感じたりする
 この話は、「信念を持って物事にひたむきに取り組むことの素晴らしさ」を表すのに喩えとして使われたりするそうだ。それはそうだ、ごもっともです、と思いつつも、ガイドブックからの情報では何をもって「これがその遺跡です」と断定されたかがいまいち不鮮明で釈然としない。まさか木馬の木片が残っていたわけではないわな。なんてちょっとひねくれたことを考えてしまうマユゲであった。

遺跡は幾層にも重なって存在している
 それはそれとして、ガイドのおじいさんについて遺跡をまわる。ここトロイの歴史は、古くは紀元前3000年にまでさかのぼるという。その後は繁栄と滅亡を繰り返し、全部で9層の都市遺跡を形成するに至ったのだとか。アレクサンダー大王率いるマケドニアやコンスタンティヌス帝時代のローマ帝国もその支配者となっている。上述の伝説の舞台となったのは、下から七つめの、第7市と呼ばれる層だとされている(ちなみにシュリーマンが発掘した「ヒサルクの丘」というのは第2市に当たる部分であったとか)。

 しばし遺跡を散策の後、昼にはホテルへと戻った。

円形劇場も残っている
 トルコはバス天国

 チャナッカレの港近くにある店でドネル・ケバブを頬張りランチを済ますと、チャナッカレのオトガル(長距離バスターミナル)へ向かうセルヴィスに乗り込む。セルヴィスというのは、市街の中心地とオトガルとの間をピストン輸送してくれるバス会社のミニバンのことだ。英語のサービスに当たる言葉らしい。

 次なる目的地はトルコ東部にある「ネムルト」という山。ネムルトもまたユネスコによって世界遺産として登録されている観光スポットだ。しかしここチャナッカレはトルコの西の端。直線距離でもゆうに1,000キロを超えるこのトルコ横断のような行程、たとえ直行便があったとしても丸一日以上バスに揺られることになりそうだ。そこでこの日はその中間地点であるトルコの首都アンカラまで行って一泊し、翌日の夜行バスでネムルトへの基点となる街マラティヤに乗り込むということにした。


トルコの車窓から

オトガルには各社色とりどりのバスが集まる
 午後1時にチャナッカレのオトガルを出発、アンカラまでは所要11時間の予定。到着は真夜中か、と思いつつコロンヤをピタピタ。

 窓からは、だだっ広い平原と、その向こうにはエメラルド色に横たわるダーダネルス海峡を挟んでヨーロッパ側の半島が見えた。そんな車窓をぼんやり眺めたり、持参のMDを聞いたり、本を読んだりして、和やかに午後を過ごす。

 途中数時間おきに街道沿いのドライブインや中間都市のオトガルで休憩が入る。かつてオスマントルコ帝国が首都としたこともある、ブルサという街のオトガルはなかなか立派なものだった。キオスク、食堂、土産物屋、チケットカウンターなどが整然と並んでいて、その雰囲気はまるで空港のようだ。このような大都市のオトガルになると荷物預かり所や宿泊施設もあるらしい。トイレも当然広い。ちなみにトルコの公衆トイレはほとんどが有料で、用を足して出てきたらトイレ入口にいる係の人に支払うようになっている。値段はだいたい15万か20万TLといったところ。「トイレに20万!?」というとちょっとビビるが、24円と考えれば妥当かな。


近代的オトガルの建物内は空港並み
 結局予定を40分ほどオーバーしたが、日付の変わった無事アンカラのオトガルに到着。市街へ向かうタクシーの運ちゃんに紹介してもらったホテルで条件を交渉、深夜という弱みはあるものの「最悪、今から近辺を探してもいいや」という気楽さからくる強気な食い下がりによって、何とか好条件をゲット。これも男に生まれて得する例だな、と思いつつ、白いシーツの中に倒れ込むマユゲであった。


2001.05.20 チャナッカレ〜アンカラ

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